No.0002 記憶はどこにあるのだろう?


 人間はさまざまなことを記憶する。しかし、その多くは時の経過とともに忘れてしまう。忘れた記憶は、どこへ行ってしまうのだろうか。そもそも、記憶は、どこにあるのだろう。脳の中にあるのか。それとも、あるような気がしているだけの幻なのか。


 アメリカのSFテレビ映画『スタートレック』(1966-1969年)に、「タロス星の幻怪人」という話がある。タロス星に不時着した宇宙船の乗員が、不時着時の衝撃で、重大な損傷を負ったのであるが、高度に科学技術を発達させたタロス星人は、損傷の激しい地球人の体を元の状態に近いまでに戻し、脳に刻まれた記憶も回復させた。相手には、本人の元気な姿が見え会話もできるが、実はタロス星人が本人の記憶をつなぎ合わせて、幻を見せているという話だ。

 もしも、その人間のすべての記憶が脳の中に保存されているなら、それも、不可能ではないだろう。人類がタロス星人のような技術を手に入れるには、500年も1000年もかかるかもしれないが、技術的には不可能とは言い切れない。
 要するに、記憶はどこにあるか、ということだ。記憶は脳に保存されているのか。それとも単なる幻なのか。
この難問に一筋の光が見えてきた。人の記憶は、脳の特定の部位に物理的に、つまり物理的な変化として存在していることがわかってきたのである。
 理化学研究所と共同研究をしているマサチューセッツ工科大学(MIT)「RIKEN-MIT神経回路遺伝学センター」の利根川進教授の研究室では、マウスの脳の海馬にある特定の細胞に光を当てて刺激し、記憶を呼び起こすことに成功した。
 これは、オプトジェネティクス(光遺伝学)という手法を用いたものだ。マウスが周囲の環境に基づいて学習(実験ではショックを与えてすくむ状態を記憶させた)したときに海馬の脳神経細胞群の中のどの遺伝子が活性化したかを特定し、この遺伝子と光活性化たんぱく質の遺伝子を結合させた。そして、マウスを別の環境においても、この遺伝子に光を当てることでスイッチをオンにし、すくみの記憶を呼び起こすことに成功したのである。
 この実験によって、記憶は物質の化学変化に基づいていることが明らかになった。記憶は、単なるイメージや幻ではなく、脳の中でおこる機械的な作用であったのだ。
しかし、記憶の在り処がわかったからといって、人間の心が解明できたかといえば、そうでもない。人の心は、ころころ変わって頼りないし、記憶も現実と接する部分では常に曖昧さを残す。

 アメリカのウイリアム・ハーストとエリザベス・フェルプスの研究によると、記憶は時間の経過とともに変化し、思い起こすたびに少しずつ書き換えれているという。(出典:Wired,2012/4/23
 われわれの記憶は、環境によって、すこしずづ変えられているのだ。あなたのもっとも古い記憶はなんだろう。多くの人は、幼稚園の頃の記憶までは断片的に残っているかもしれない。しかし、赤ん坊の頃の記憶が残っている人は少ないだろう。三島由紀夫は、小説『仮面の告白』(1949年)で、生まれた直後、産湯を使っているときの光景を記憶していると書いている。

 「どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分が生まれた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくその場に居合わせた人が私に話して聞かせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだった。」(三島由紀夫『仮面の告白』より)

 小説なので、この部分は創作かもしれないが、「おそらくその場に居合わせた人が私に話して聞かせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだった。」と冷静に分析しているように、記憶は後になって、周囲の人間からの入力によって変化するのである。
 このたびの、MITの研究で明らかになったように、生まれたときからの記憶のすべてが脳のどこかに物理的に保存されているのだとしたら、すべての記憶を呼び起こすことも、不可能ではない。そして、それを再構成する技術があれば、タロス星人のようなこともできるだろう。
 しかし、過去の記憶をすべて思い出すことが幸せなことかどうかはわからない。